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小説「沈黙」の読解③

最後に「沈黙におけるキリスト教」と「沈黙における日本」という二つの視点からわかる、宗教の本質というものを考え、浮き彫りにする形でここにまとめようと思う。

・「魅力のあるもの、美しいものに心引かれるなら、それは誰だってできることだった。そんなものは愛ではなかった。色あせて、襤褸のようになった人間と人生を棄てぬことが愛だった」(182頁)
・「仁慈の道とは畢竟、我を棄てること。我とはな、徒に宗派の別に拘ることであろう。人のために尽くすには仏の道も切支丹も変りはあるまいて。肝心なことは道を行うか行わぬかだ。沢野殿もたしか、顕偽録の中にさよう書かれておったな」(230頁)
・「人間という者はどういう事態になっても虚栄心から抜けきれぬとふと思った」(244頁)


 まず始めに、大前提として先述の通り、この小説には一本の軸として日本とキリスト教という主題が存在し、そこには神の概念の違いなどの文化的な違いがあり、それを基盤として宗教が成立、形成されるという事が描かれている。それは現代にも通じており、宗教の本質と考えていいだろう。確かに日本にも正月、初詣などの文化という形で宗教が存在する。宗教と文化は不可分の関係なのである。
 また、中でも愛の定義に関しては明確に記述されている。そして、祈りに関しては神への讃美や救いを求めているという名目を持ちながら、実際は自らの精神の欲求の発露であると分る。が、しかし、その点に関しては否定的に神という名目で自分の欲求を吐き出している、即ち「我を棄てる」という仁慈の道とは反対の信仰の形態であるという風な見解のみならず、その欲求の中に神の救いが存在するという肯定的な見方も可能なのである。即ち、現世において何か満たされぬものがあるから欲求が存在するのであり、その満たされぬものというのが神なのである。そして、その神を理念として、絶対的、超越的な存在として定義するのは、その不満を満たし得る概念だからであるのではないだろうか。仏の道と切支丹に、人に尽くすという表面的な言動に違いはないという軽薄な言葉を通辞に言わせることで、仏の道という「我を棄てる」宗教とキリスト教という「我から救いを見出す」宗教という根本的な差異の大きさをより強調されている。司教はこの小説のなかで虚栄心が垣間見える描写が多いが、それすらも「我を棄てる」という性質とは全く違い、人間的な性質や欲求が司教という信仰を第一とする人格においても存在するのである。つまり、宗教やその根底を成す文化の違いというのは「神の概念」という記述に基づく見解だけでなく「救いの見出し方」という違いが明確な記述を避ける形で存在し、それが先述の「この国にはな、どうしても基督教を受け付けぬ何かがあったのだ」という発言の「何か」に対応するのではないか。
 そして最後に、この小説のタイトルである「神の沈黙」を考える。神の不在とは信仰の本質として存在する盲目性そのものであり、それ故に信仰とは決定的な脆弱性を持つと同時に意志の強さが要求されるのであるが、ここでは信仰が意志の強さを与え、意志の強さが信仰を支えるという奇妙な構造が見て取れる。それ故にキチジローの「生まれつき(意志の)弱い人間はどうすればいいのだ」という問いが常に存在するのであり、キチジローはそのためのキーパーソンなのである。言ってしまえば、意志の弱い人間は信仰を支えられず、それ故に意志が弱いのである。

 これらが「沈黙」の宗教観である。

 「たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた」(295頁)

この一文の重みがブログの読後で変わっていれば幸いです。
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小説「沈黙」の読解②

②「沈黙」における日本の宗教性

・「その点、日本はまさしく、聖フランシスコ・ザビエルが言われたように「東洋のうちで最も基督教に適した国」のはずでした」(20頁)
・「日本人は私たちの知る限り最も賢明な人々で」(199頁)
・「こうしたものを日本の信徒が崇敬するのは悪いことではありませんが、しかしなにか変な不安が起こってきます。彼等はなにかを間違っているのではないでしょうか(ロザリオを求める村の人々の描写)」(67頁)
・「彼の話をきいた日本人は我々の主を、この国民が長い間信じていた太陽と同じものだと考えていたのです」(108頁)
・「切支丹とよぶ樹は異国においては、葉も茂り花も咲こうが、我が日本国では葉は萎え、つぼみ一つつけまい」(171頁)
・「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと恐ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐り始める。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」(231頁)
・「だが日本人がその時信仰したものは基督教の教える神でなかったとすれば……」(232頁)
・「そうではない。この国の者たちがあの頃信じたものは我々の神ではない。彼等の神々だった。それを私たちは長い長い間知らず、日本人が基督経になったと思い込んでいた」(232頁)
・「デウスと大日とを混同した日本人はその時から我々の神を彼等流に屈折させ変化させ、そして別のものを作りあげはじめたのだ」(233頁)
・「外形と形式だけ神らしくみせながら、既に実体のない死骸になってしまった」(235頁)
・「神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう」(236頁)
・「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力を持っていない。日本人は人間を超えた存在を考える力を持っていない」(236頁)
・「日本人は人間を美化したり拡張したものを神と呼ぶ。人間と同じ存在をもつものを神と呼ぶ。だがそれは教会の神ではない」(236頁)
・「この国にはな、どうしても基督教を受け付けぬ何かがあったのだ」(239頁)

 
沈黙では具体的に日本の宗教性に関してはほぼ記述されない。が、最初に「日本はキリスト教に最適のはず」とあり、最後にフェレイラ師の「日本はキリスト教に適していない」という発言があることから、この小説には一本の軸として日本とキリスト教の親和性というテーマが存在すると分かる。ロザリオを求める村の人々からはすでに日本との文化、宗教性の違いに違和感を抱いている。
また、日本を「沼地」と形容することは、つまりは日本の(文化的)土壌、基盤がキリスト教に適していないということを示しており、その点に関しては「神の概念を持たない」「人間と隔絶した神を考える能力を持たない」との記述で説明されている。つまり日本の神は人間の拡張であり、キリスト教の神は超越的存在であるのだ。それ故にキリスト教の神の理解の際、本質が変化したのだろう。

特筆すべきは最後の最後に「キリスト教を受け付けない『何か』」とあえて曖昧な表現をしていることである。ここからは神の文化的概念だけでなく、さらに言いたい何かが隠されていると考えられる。つまりはここに該当するのがキーポイントである。

・「パライソに行けば、ほんて永劫、安楽があると石田様は常々、申されとりました」(128頁)
・「久五郎は果報もんじゃの、と信徒の一人が羨ましそうに呟いた。もう何の苦患ものう、いつまでも、眠っ取るじゃ」(176頁)


 日本でのキリスト教の在り方が垣間見える記述であるが、穢れ、苦しい現世を脱して永遠の安楽を天国に行けば得られると考えていると分るが、それは日本の浄土教的な解釈であり、本質的なキリスト教の神の国と齟齬が生じていることが分る。
 「あそこでは、私たちは何も奪われることはないだろう」(129頁)
 これはパライソ(天国)に関する司教の言葉であるが、永劫安楽が得られるという言葉に対する応答であり、それにただ頷くのでなく「何も奪われない」と敢えて曖昧な表現をしているのは、永遠の安楽というのを「浄土、現世からの離脱による安楽」と「信仰を誰もが共有し、神の不在という脆弱性が露呈しない神の国の実現という安心」という齟齬とを包括するためであると考えられる。

ここまでが「沈黙」における日本の宗教性に関する抜粋、それの考察である。
この時点で点を浮き彫りにして延長する作業が終わったので、次はその交点などについてまとめる、つまり結論について書く。


小説「沈黙」における宗教性①

「沈黙」で描かれているのは一読した印象としては「信仰の在り方」であると思ったので、一応もーちょい拡大して「沈黙における宗教観」というテーマを設けて読解する。その目的において、キリスト教の宗教性に関する読解と日本の宗教性に関する読解の二方向からの視点から結論という方向性で読解する。前半では「沈黙におけるキリスト教」の抜粋文とここの考察を試みる。

①沈黙におけるキリスト教

・「しかし全員、神の恵みに強められたため、大きな勇気を得て、自分達を拷問にかけよ、自分達は信奉する教えを絶対に捨てぬと答えた」(7頁8頁)
・「信仰は決して一人の人間をこのような弱虫で卑怯な者にする筈はない」(34頁)
・「この性来、弱虫男には、勇気というものがどうしても持てなかったのです。性格そのものは本当に善良なのですが、意志の弱さと一寸した暴力にも震え上がる臆病さを直すのはお前の飲んでいる酒ではなく、ただ信仰の力だと私は手厳しく言ってやりました」(64頁)
・「彼等はただ平凡な信徒だったから、肉体の恐怖に負けてしまったのだ」(121頁)
・「勇気も時には他人迷惑になる。わしら、それを盲目の勇気と申しております。いったいにパードレたちの中にはこの盲目の勇気にとりつかれて、日本国に迷惑かけることを忘れる者が多い」(138頁)


キリスト教における「信仰の効力」に関する記述を抜粋した。その効果は「大きな勇気」であり「暴力に屈しない意志の強さ」であるそう。暴力はもちろんここではキリスト教徒弾圧だが、さらに抽象化すると「信仰を揺るがす特異な環境」と換言出来るので、一言でいうと「信仰を支える意志の強さ」である。
また、肉体と精神という二項対立が見られるが、それがキリスト教では激しいんだろう。ふーんって感じだ。
「盲目の勇気」というのは面白い表現で、盲目というのは他者を顧みない態度そのものを指すが、そもそも信仰とは盲目的なものである。神は実在しないし、沈黙を続ける。タイトルの「神の沈黙」とつながるが、これは信仰における決定的な脆弱性と定義していいかもしれない。

・「フェレイラ師が神を棄て、あの優しさを棄てたとは信じられない」(12頁)
・「私は人々に奉仕するために生まれてきた司祭でした。その奉仕を肉体の臆病故に怠るのは恥でした」(57頁)
・「神は本当にいるのか。もし神がいなければ、幾つも幾つもの海を横切り、この小さな不毛の島に一粒の種を持ち込んできた自分の半生は滑稽だった。蝉がないている真昼、首を落とされた片眼の男の人生は滑稽だった。泳ぎながら、信徒達の小舟を追ったガルペの一生は滑稽だった。司祭は壁にむかって声をだして笑った」(216頁)
・「自分は今自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢に満たされたものを踏む」(268頁)


キリスト教と個人の関係性に関する記述だが、棄教することが優しさを棄てることと同義であるとの記述には人格との密接な関係がみられる。また、自らの存在意義、崇高な理念、聖性、善美などの対象として個人の中で概念化されていると分かるが、この概念こそが指針として人格を支えるという絶対的な帰依がみられる。

・「祈りというものがこの地上の幸福や僥倖のためにあるのではないことはよくわかっていましたが、分ってはいても私は真昼からこの沈黙が早く、早く村からさることを祈らざるを得なかった」(75頁)
・「これが祈りか。祈りというものはあなたを讃美するためにあると、長いこと信じてきたが、あなたに語りかける時、それは、まるで呪詛のようだ」(188頁)
・「衆生にすがる仏の慈悲、これを救いと日本では教えておる。だがそのパードレは、はっきりと申した。切支丹の申す救いは、それと違うとな。切支丹の救いとはデウスにすがるものだけのものではなく、信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬと」(289頁)


祈りとは信仰に根差す行動、信仰の一形態であり、救いを求める積極的な行動だ。ここでは祈りが神への帰依、讃美によるものにみえながら実際は自らの精神的、即物的欲求に対応する発露にすぎないと考えられる。それを神の讃美というパッケージをして行っているに過ぎない。この精神の欲求と神への讃美が合致していることもあるが、ズレが生じている場合、本小説のような特異な環境ではそれが露呈するのだろう。

・「いいえ、キチジローが言いたいのはもっと別の恐ろしいことだったのです。それは神の沈黙ということ。迫害が起こって今日まで二十年、この日本の黒い土地に多くの信徒の呻きがみち、司祭の赤い血が流れ、教会の塔が崩れていくのに、神は自分にささげられた余りにもむごい犠牲を前にして、なお黙っていられる。キチジローの愚痴にはその問いが含まれていたような気が私にはしてならない」(83頁)
・「最大の罪は神に対する絶望だと言うことはもちろん知っていましたが、なぜ、神は黙っておられるのか私には分らなかった」(105頁)
・「一人の人間が死んだというのに、外界はまるでそんなことがなかったように、先程と同じ営みを続けている。こんな馬鹿げたことはない。これが殉教というのか。なぜ、あなたは黙っている。あなたは今、あの片眼の百姓が―あなたのために―死んだと言うことを知っておられる筈だ。なのに何故、こんな静かさを続ける。この真昼の静かさ。蠅の音、愚劣でむごたらしいこととまるで無関係のように、あなたはそっぽをむく。それが……耐えられない」(187頁)
・「わしが転んだのはな、いいか。聞きなさい。そのあとでここに入れられ耳にしたあの声に、神がなにひとつ、なさらなかったからだ。わしは必死で神に祈ったが、神は何もしなかったからだ」(262頁)


この小説の大きな題材である「神の沈黙」に関する記述である。ここでは「神の沈黙」とは恐ろしいことと記述されているが、一抹の違和感を覚えないだろうか。というのもその問いをこれまで考えなかったとは思えず、ここで初めて知ったわけではないからこその「恐ろしさ」であり、形容するなら「臭いものに蓋をしていた」ような状態だったのではないか。先述の通り、信仰とは本質的に盲目的であり、それにとっての決定的な脆弱性とは、神が実在しないのに神を信仰するという盲目性そのものであり、理性的にこの脆弱性に蓋をしていたのではないだろうかと考えられる。

ここまでが簡単な「沈黙におけるキリスト教」である。
次は「沈黙における日本」を考えてみる。

小説における読解について

めちゃくちゃ久々にFC2ブログを書こうと思ったら前の記事から一年だそうで、なんだか感慨深いようなそうでもないような微妙な感じではあります。改めてよろしく御願いします。

今回読書における読解についてという題で記事を書いているのは、今後定期的に読書感想文を投稿するつもりで、その前に読書の方向性を自分なりに定めておきたかったからです。何故敢えて「読書における」としたかというと、受験の切り抜かれた部分的読解と勘違いされそうだから。以上。

それで、読解の仕方てあまり大差ないんじゃないの?と言われそうですが、本は一面的なものではないので読解の仕方によって時に変質する事は少なくないからです。円柱を上からみたら円だけど、横から見たら長方形であるように物事は多面的でそれを完全に把握することは難しいのであるテーマを設けて読解するなどの策を弄します。受験ではそのテーマが設定され、あくまで「本の部分のさらにその一面だけを読解する」という極めて限定的なもので、一冊丸々の読解とも大きく異なると思います。

ではどういう方向性で読解していくか。

ここで一つ。
ミステリーには「ヴァンダインの二十則」や「ノックスの十戒」という所謂お約束が存在します。正確には「読者と著者が共有すべき」というだけで、それを破ったら「ミステリーという定義から除外される」のではなく、「読者の著者の信頼関係が損なわれる」というだけです。敢えてそれを裏切るのも一つのスタンスです。

で、小説にはこういう約束事って明確には定義されてないと思います。あったらゴメンなさい。ただ、基本的にあるべき約束事というのは暗黙の了解であるのかもしれない。自分が考えて、最も必要であるべき約束事というのは「著者の考えるテーマが小説内で論理的な形で導き出せる」ということだと思います。それを勝手に僕は信頼します。その必要であるべき約束事が守れていない以上、さらに高度な約束事というのは成立しないからです。

というわけで基本的に小説に関して「参考文献を一切用いない」というスタンスで読解を進めます。今回遠藤周作が中でも分りやすいと思って「沈黙」という小説で実践してみたところ、ある程度成功したと思います。

また、どういう方向性かともっと端的に言うならば「点と点を繋いで線にする」読解法です。例えばある仮説に基づいて読解を進め、そこに該当するものだけを抜粋した場合は、その仮説にそぐわない部分を見落としてしまうことになります。だからあるテーマに基づいて全てを抜粋し、そこから分析的に点(部分)を考察(延長)することで点と点がつながるように「抜粋→考察→こじつけ」の順で読解しています。一切の主観性を排除するよう努力することが必要で、先述の「ある仮説」というのは設けずとも意識的に存在するものですのでそこに注意します。

簡単に言うと「二項対立」「対義語・類義語」「こじつけ考察」をベースに読解するつもりです。必要を迫られれば策を講じますが、基本的にはこれで事足りると思います。なんか武器を並べていまからいざ戦闘に向かわんとするようでウキウキしますね。はい。

現状ここまでは考えています。もしかすると拡大・縮小する可能性があるので、その場合は随時追記していきます。

P205 漆塗り

製図用ペンシルは非常に書きやすく常用にはうってつけなのですが、質感において高級ペンシルには圧倒的に劣るものがあります。
自分でもその点には長らく悩んでおり、やっと答えとなるような製図ペンシルに出会えたと思っています。

それは、こちら。

oiioda.jpg

皆さんご存知、ぺんてるの名品であるP205に漆塗りを施したものです。
漆塗りはたけじゅんさんという個人で漆塗りをやっておられる方にしていただきました。

あまり値段については言及しない主義なのですが、この漆塗りに関しては確実に値段以上の価値があると思います。
実際にたけじゅんさんも儲からないと冗談めかして言っていました。

P205についてはいずれ別個で詳しく記事を書くつもりなので、この記事では漆塗りについてをメインに書きたいと思っています。

それではペンを見ていきましょう。

jjjj.jpg

細かい点ですが、口金付近の段差です。
いい感じに丸まっており、書いている時に全く気になりません。
こういった細部にまで丁寧な成形がされているのはとても好感が持てます。

ぺんてるのシンプルで、バランスの良い口金でロゴもないシンプルさが際立ちます。
クリップのデザインがいいアクセントになっていますね。

sasdasss.jpg
(上がPILOTの漆塗り万年筆のカスタム845、下が今回オーダーしたP205)

同じ漆塗筆記具ながら、質感が全く異なります。
845はツルっと上品な艶があり綺麗ですが、P205も艶がありながら845にはない吸い付くような独特のグリップ感があるのです。
艶感もP205方が若干潤いを感じるような……言葉にしづらいですが、質感も違います。
よく見ると反射してる光も僅かに違いますね。

因みにこれは透明漆でコーティングしたものではなく、黒漆のみの仕様になっています。
保護が無い分、漆をこころゆくまで堪能することが出来ます。

そういえば、845では僅かしか感じなかった漆のにおいがP205ではすごいしました。
苦手な人は苦手かも……個人的には嫌いじゃないです。
けれど、2週間ほど使ってほとんどにおいは収まってきたので自然と消えていくようです。
ちなみに最初、P205の漆はとても柔らかく、凹みなどが出来やすいそうなのですが、それはまだ完全に乾燥しきっていないからだそうです。それもにおいの原因なんだとか。
半年くらいで完全に固まり、カチカチになってにおいも消えるそうです。

oas.jpg
(下が塗装のないP205、上が漆塗りP205です)

比較ですが、塗装なしのP205が9g、塗装ありのP205が10gです。
同社のPG5も10gです、重量感や重心はP205よりもPG5に近いんじゃないかしら。

ぺんてる/PG5の記事はこちら

僅か1gの差ですが、漆塗りのほうが「身が詰まっている」ような印象受けます。
というのも、もともとP205は爪で叩くと「カシャカシャ」という音がして安っぽい印象が否めなかったのですが、漆塗りだとその音がほとんど無くなったからです。どうでもいいように思えるかもしれませんが、かなり大きな違いです。

そして、P205は12角形軸ですが漆塗りでは円形になっています。
ぺんてるの12角形はオレンズネロにも継承されていますね。
たけじゅんさんによると、指で漆を厚く塗り、ペーパーで完全な円形に仕上げてるんだそう…手作業とは思えぬ丁寧な成形。
塗っては乾かし、塗っては乾かしを約10回、一か月をかけてやっと完成するそうです。
凄い手間…(;'∀')

お話しさせていただいた時に教えて貰ったのですが、たけじゅんさんはP205をこよなく愛しているそうです。
40年間愛用しており、累計最低でも30本は使ったんだとか。
たけじゅんさんは今でも重心を調節するために内部機構に薄い鉛を巻くなど、カスタマイズして使っているそうです。

因みに、P205は今では国内で廃番になり、海外でのみ販売されています。
それをわざわざ個人輸入して、漆塗りを施されているんだそう。
細部の成形の丁寧さからも感じられるP205愛……。素晴らしいです。

duiada.jpg

僭越ながら総評させていただくと、ブランド筆記具のような高級感はありませんが、漆を世界で最も堪能できる筆記具の一つと言っても過言でないと思います。
滲み出る品質の良さ…まさに「質実剛健」という言葉を具体化した筆記具ではないでしょうか。
写真では質感や漆のにおい、吸い付くようなグリップ感などが伝わらないのが残念です。

ぜひとも手にとって五感で体感してほしい思考のペンシルです!!
ご購入はこちらのURLから可能です、よろしければどうぞ。

→ たけじゅんさんの漆塗りP205はこちらから

長文でしたが、読んでくださってありがとうございました!

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あるいは当ブログの記事内容に関する批判、指摘、感想などを行いたい方もこちらから投稿可能です。
匿名ですので、気軽によろしくお願いします。

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前回の「Pelikan/スーベレーンD405」の記事はこちらから。

Pelikan/スーベレーンD405の記事



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黒酢菌

Author:黒酢菌
某芸大を目指している高校生。
完全に文系。
考えることが好き。
Twitterをやっております、よろしければどうぞ。
( @kurozu830 )

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